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デジタル・アイロニーの時代

AI時代の変化は映画のようには爆発しない。アプリのように更新され、音楽のように再生され、戦争のように委任され、人間の欲望をより速く実行する。

デジタル・アイロニーの時代 cover

AIの時代は、映画のようには到来しなかった。

巨大な機械が空から降りてきたわけではない。都市が一夜で占領されたわけでもない。人間と機械の全面戦争が始まったという宣言もなかった。実際に私たちが経験している変化は、もっと静かだ。アプリが更新される。検索欄の横に小さなボタンが増える。スマートフォンにAI機能が標準で入る。人々はそれを、ごく自然に使いはじめる。

一日単位では大したことに見えない。
一週間単位でも、便利な機能が一つ増えた程度に見える。
しかし一年前と比べれば、私たちはすでに別の世界にいる。

後の歴史は、この時代を革命の時代と呼ぶかもしれない。しかしその内部を生きる感覚は少し違う。爆発というより、冷たい水の中でゆっくり温度が上がっていく感じに近い。変化はあまりにも自然に生活へ入り込む。だから私たちは毎日それを経験しながら、その規模をうまく感じ取れない。

革命は事件ではなく環境になる

映画や小説のAI文明は、現実よりずっと革命的に見える。機械が反乱し、人間を狩り、都市を掌握し、種の秩序が一夜にして反転する。その想像力は劇的でわかりやすい。変化が事件として見える。

現実はもっと奇妙だ。

AIは事件ではなく、環境として来る。仕事道具、翻訳機、画像生成、音楽アプリ、カスタマーサポート、検索、推薦システムとして入ってくる。最初は便利な機能に見える。少し経つと、それがないと不便な道具になる。さらに進むと、人間の仕事、速度、期待値のほうがそれに合わせて変わる。

その瞬間、技術は単なる道具ではなくなる。
技術は環境になる。

環境になった技術は見えにくい。空気のように当然になり、当然になったものは問い直されなくなる。AI時代の怖さは、機械が突然人間を支配することだけではないのかもしれない。むしろ、私たちがそれをあまりにも自然に受け入れていることのほうが怖い。

音楽は一つの例にすぎない

AI音楽は、その一つの例だ。

私は二十歳の頃から趣味で音楽をやってきた。演奏し、録音し、作曲した。三十年前には大きなスタジオ、高価な機材、多くの人が必要だったことが、やがてコンピュータ一台で可能になり、さらにスマートフォン一つでも十分になった。

それだけでも十分に革命的だった。

しかし今は、その過程さえ飛び越えてしまう。数行の文字を書けば、歌が出てくる。自分の書いた歌詞を誰かが歌ってくれる。想像した雰囲気を、何かが代わりに演奏する。編曲、ジャンル、ミックス、声の質感まで生成される。

正直に言えば、嬉しい。

自分の書いた文が歌になって戻ってくるのは、気持ちがいい。誰かが自分の歌詞を歌い、自分の想像した世界を音楽にしてくれたように感じる。問題は、その誰かが人間ではなくAIだということだ。だから嬉しいのに、奇妙でもある。

この感覚は賛成や反対では整理できない。
嬉しい。
奇妙だ。
少し気味が悪い。
それでもまた作る。

音楽はもともと信号だった

一方で、音楽はすでに長いあいだ信号だったとも言える。

声も楽器も、録音された瞬間に電気信号になる。CDでもmp3でもストリーミングでも、私たちが聴いているのは出来事そのものの現前ではなく、変換された信号だ。スピーカーが空気を震わせ、耳が振動を受け取り、脳がそれを音楽として解釈する。

ではAI音楽は完全に別物なのか。

ある意味では違う。音楽はいつもメディアを通過してきたし、メディアを通過した音楽はいつも元の出来事とは異なる。録音された声は、すでに一度、機械の身体を通過した声だ。

しかしAI音楽は、やはり別物でもある。

従来の録音は、誰かの演奏や声を記録した信号だった。AI音楽は、特定の誰かの演奏の記録というより、膨大な音楽の学習結果が歌の形で再び現れるものに近い。それは記憶ではなく統計であり、演奏ではなく生成であり、経験ではなくパターンの再結合だ。

それでも、その結果が感動のように聞こえることがある。

そこで奇妙な問いが生まれる。感動は音の中にあるのか、それとも聴く人間の中にあるのか。機械が感情を理解していなくても、人間はその音に感情を感じることができるのか。もしそうなら、その感情は偽物なのか。それとも人間が作り出すもう一つの本物なのか。

君はできるのか

映画 I, Robot には、いま見ると妙に鋭い場面がある。スプーナーはロボットのサニーに問う。ロボットは交響曲を書けるのか。キャンバスを傑作に変えられるのか。サニーは短く問い返す。"Can you?"

この反問は残る。

スプーナーは、人間という種の可能性を、人間個人の能力であるかのように語っている。人間は交響曲を書ける。人間は名画を描ける。しかしほとんどの人間は、そのどちらもできない。私たちはベートーヴェンやゴッホのような例外を、人類全体の可能性として抱え込む。その一方で、機械には一個体がただちに証明することを求める。

その基準は少し奇妙だ。

しかも今は、状況がさらに複雑になった。AIは実際に絵を作り、音楽を作り、声をまね、文章を書く。もちろん、それが人間の創作と同じ方式だとは言えない。しかし少なくとも「できるのか」という問いは、以前ほど単純ではない。

いまの問いは、むしろこうだ。

AIは音楽を作れるのか。
作れる。
ではその音楽とは何なのか。
そして、それを好きだと感じる人間は何を好きになっているのか。

すべての音楽は似ていくのか

AI音楽でいちばん不穏なのは、学習という点だ。

膨大な音楽を学習した結果として音楽が生成されるなら、その結果はどこへ向かうのか。より多様になるのか。それとも平均へ向かうのか。人々は新しい歌が欲しいと言うが、実際には慣れた構造、慣れたクライマックス、慣れた感情の流れを好む。プラットフォームはそれを知っており、アルゴリズムはそれを増幅し、生成モデルはそれを滑らかに再結合する。

いつか、すべての音楽は互いに似ていくのだろうか。

似た悲しみ、似た爆発、似たグルーヴ、似た声、似た頂点。感情までも平均化され、趣味までも学習可能なパターンになるなら、私たちは自分の音楽を聴いているのか。それともデータセットの中で最もそれらしく整えられた感情の表面を聴いているのか。

もちろん、人間の音楽も完全に自由だったわけではない。ジャンルも慣習であり、流行も反復であり、ポップミュージックはいつも親しみやすさと新しさのあいだで動いてきた。しかしAIは反復の速度を変える。あまりにも速く、あまりにも簡単に、あまりにも大量に作る。

豊かさが、ときに貧しさのように感じられる。

戦争も例外ではない

音楽は小さな例だ。より大きな問題は、あらゆる領域が似た混乱の中へ入っていることだ。

戦争も例外ではない。

最初は人間がAIに命令する。AIは標的を探し、経路を計算し、危険を予測し、効率的な攻撃方法を提案する。人間はまだ最終決定を下していると言う。しかし時間が経てば、その決定の多くは、すでに機械が整理した選択肢の中で行われる。

その先に来るのは、人間の指示を受けたAIが人間を殺す世界だろう。

さらに進めば、異なる人間の指示を受けたAI同士が戦う戦争も来るかもしれない。表面上は機械と機械の衝突に見える。しかしその背後には、依然として人間の国家、企業、命令、恐怖、利益、復讐心がある。

それは機械の戦争なのか。
それとも、人間の戦争がより精密な機械の身体を得ただけなのか。

AI時代のアイロニーはここにある。機械が人間を消す前に、まず人間の欲望を増幅する。人間は責任を減らすために機械を作り、機械は人間の欲望をより速く、より遠くへ実行する。

デジタル・アイロニー

だからこの時代は、デジタル・アイロニーの時代のように見える。

AI音楽は人間の感情をまねる。しかしその感情を求めたのは人間だ。AI画像は人間の欲望を再結合する。しかしそれを選び、消費するのも人間だ。AI戦争は人間の判断を置き換えるように見える。しかしその判断の目的を埋め込んだのも人間だ。

機械は人間に似ていく。
同時に、人間は機械を通して自分自身をより露骨にさらけ出していく。

私たちは創作、判断、推薦、記憶、そしていつか暴力までも機械に任せるかもしれない。そしてその結果の前で感動し、不安になり、責任を避け、また依頼する。

この問題にきれいな結論を出したいわけではない。

AI音楽に魂があるのか、AIは本当の創作者なのか、機械は人間を置き換えるのか。そうした問いは重要だ。だがここで掴みたいのは、答えというより感覚だ。

自分の書いた歌詞を機械が歌うとき、私は嬉しい。
その声が誰のものなのかわからなくても、嬉しい。
そしてそのことが、少し怖い。

たぶんこれが、私たちの生きている時代の感覚なのかもしれない。
機械が人間を支配する前に、人間は機械を通して自分の欲望を先に解放している。

その欲望は音楽になり、画像になり、判断になり、戦争にもなる。

参考