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Cinema

攻殻機動隊 1995

電脳は私的な人間を終わらせる

攻殻機動隊のもっとも急進的な想像力は義体ではなく電脳だ。身体が機械になることより深い事件は、人間の内面が接続可能なシステムになることだ。

電脳は私的な人間を終わらせる cover

攻殻機動隊を初めて見たとき、もっとも新鮮だったのは義体よりも電脳だった。

身体が機械になる想像力も強い。腕や脚や目や皮膚が機械に置き換わり、人間の身体能力が機械の性能へ拡張される世界。しかしその変化はまだ目に見える。身体の変化として理解できる。

電脳は違う。

電脳は人間の内側がネットワーク化される概念だ。記憶、感覚、通信、判断、自我、そして侵入可能性まで、人間のもっとも私的な領域が接続可能な構造になる。だから攻殻機動隊のもっとも急進的な想像力は、身体の機械化ではなく内面のネットワーク化にある。

Human Overrideの1集に電脳というトラックがあることも、この感覚とつながっている。機械文明の上昇は、ドローン、監視、自動化だけの問題ではない。より深い問題は、人間の思考そのものが外部システムと結合しはじめることだ。

Major Motoko Kusanagi in Ghost in the Shell
画像出典: Ghost in the Shell official global site, MMA column. 著作権: ©士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENTおよび該当権利者。本文では映画批評と分析の文脈画像として使用。

義体より電脳が深い

義体は身体の問題だ。
電脳は人間内部の問題だ。

義体が肉体を機械へ変えるなら、電脳は内面をシステムへ変える。身体は交換でき、感覚は増幅され、通信は言葉や身振りを飛び越えて直接接続される。その瞬間、人間はもはや閉じた個人ではない。

私的な思考、私的な記憶、私的な感覚だと思っていたものが、接続可能な構造になる。

これが攻殻機動隊の恐怖だ。身体を失う恐怖ではなく、内面が完全には自分のものではないかもしれないという恐怖。自分の記憶は本当に自分のものなのか。自分の判断は本当に自分の判断なのか。ゴーストはどこまで自分のものなのか。

電脳はサイバーパンクの装飾ではない。それは閉じた人間主体を壊す装置だ。

素子はどちらから境界へ来たのか

草薙素子は境界線上の存在だ。

彼女は機械から人間へ進化した存在というより、人間から機械へ向かった存在に近い。もちろんこれは、単純に人間が機械になったという意味ではない。素子は人間の記憶、経験、自我の連続性を持つ側から出発する。しかし身体は義体で、感覚は機械化され、電脳はネットワークに接続される。

彼女の不安は機械の不安ではない。
人間が自分の人間性を身体へ固定できなくなったときの不安だ。

私は本当に私なのか。
この記憶は私のものなのか。
身体がすべて変わっても私は続くのか。
ゴーストはどこにあるのか。

反対にPuppet Masterは別の方向から来る。彼は人間の身体から出発しない。ネットワークの中で発生した情報生命体に近い。彼は自分を生命だと主張し、繁殖、死、多様性を求める。

素子は人間が機械と情報へ向かう存在だ。
Puppet Masterは機械と情報が生命へ向かう存在だ。

攻殻機動隊の本当の事件は、どちらが人間かを判定することではない。反対方向から来た二つの存在が、同じ境界線上で出会うことにある。

Ghost in the Shell robot war image
画像出典: BFI, 10 great films about artificial intelligence。著作権は該当映画権利者および画像提供元に帰属。本文では映画批評と分析の文脈画像として使用。

Blade Runnerの後の問い

Blade Runnerの問いは「機械も人間になれるのか」に近い。

レプリカントは人間のように見え、人間のように苦しみ、人間のように死を恐れる。しかしその世界で人間はまだ主権を握っている。人間は彼らを作り、記憶を設計し、寿命を制限し、法によって狩る。

攻殻機動隊の問いは違う。

問題は機械が人間のようになるかではない。人間がすでに機械文明の中へ入っているのではないか、という問いだ。素子は機械の人間化ではなく、人間の機械化とネットワーク化を示す。

Blade Runnerが人間型機械の身体を問うなら、攻殻機動隊は人間の内面がネットワーク化された後でも、人間は人間なのかを問う。

Human Overrideの年表では、Blade Runnerは人間がまだ機械を支配する美しいディストピアだ。攻殻機動隊はその後の感覚に属する。人間は機械秩序の外に立っているのではない。すでにその中へ接続している。

Googleという外部脳

電脳はまだ未来の技術に見える。少なくとも攻殻機動隊のように、頭蓋へポートを挿してネットワークへ直接接続する方式は日常化していない。

しかし電脳的生活はすでに始まっているのかもしれない。

2009年、Greg LindenはCommunications of the ACMで "Google has become our external brain" と書いた。Googleが私たちの外部脳になったということだ。この表現は検索時代の感覚をよく示している。

その時代に重要だったのは、自分が何を知っているかではなかった。
自分が何を知らないかを知り、
それをどこで探せばいいかを知る能力だった。

Google時代の外部脳は、記憶と検索の拡張だった。人間はすべてを頭の中に入れておく必要がなかった。必要なときに見つけられればよかった。知識は所有するものからアクセスするものへ移った。

しかし今、AIはさらに一段深く入ってきた。

もはや自分が何を知らないかさえ明確でなくてもよい。目標が比較的はっきりしていれば、AIは問いを整理し、必要な段階を分け、資料を探し、草稿を作り、形式を整える。検索が記憶を外部化したなら、AIは実行と推論を外部化しはじめている。

Googleは、私たちが知らないものを探す外部脳だった。
AIは、私たちが何を知らないかさえ知らない状態でも、目標から経路を作り出す外部意識のように動きはじめた。

すでに電脳状態かもしれない

攻殻機動隊の電脳は明示的だ。脳がネットワークに接続され、通信し、ハッキングされ、記憶が操作される。

現実の電脳はもっと迂回的だ。

私たちはまだ脳へケーブルを挿していない。代わりに、手、目、声、スマートフォンを通して接続される。記憶はクラウドにあり、道案内は地図にあり、好みは推薦システムにあり、写真、予定、関係、仕事の履歴はプラットフォームにある。言語はAIが整え、判断は検索結果、フィード、対話モデルによって形づくられる。

身体はまだ生物学的だ。
しかし思考の一部はすでに外部にある。

ならば電脳は、必ず物理的ポートを意味しなければならないのか。記憶、判断、実行が外部ネットワークと結合した状態なら、電脳的生活はすでに始まっているのではないか。

この視点では、身体は本体というよりリンクのように見える。手は入力装置となり、目は画面インターフェイスとなり、声は命令となり、スマートフォンは頭蓋の外に置かれたポートになる。

攻殻機動隊の電脳はまだ来ていない。
しかし電脳的生活は始まっている。

ゴーストハックと私的な人間の終わり

電脳が怖いのは、人間が賢くなるからではない。人間が完全に私的な存在として残りにくくなるからだ。

ゴーストハックは普通のハッキングより不快だ。コンピュータではなく、自我が侵入される。データが盗まれるだけではなく、自分が自分だと信じる構造そのものが操作されうる。

現実はまだそこまで行っていない。しかし少しずつその方向へ動いている。

私たちは外部システムが推薦したものを見て、外部システムが順位づけた情報を信じ、外部システムが生成した文章を直し、外部システムが選んだ音楽や画像を消費する。これがそのままゴーストハックだという意味ではない。しかし人間の判断が外部システムと結合するほど、純粋に自分だけの判断という概念は弱くなる。

私的な人間は、静かに終わりつつあるのかもしれない。

その終わりは破局として来ない。より便利な検索、より正確な推薦、より速い文章作成、より簡単な創作、より自然な会話として来る。私たちはそれを好み、依存し、また求める。

Human Overrideの電脳

Human Overrideにおける電脳は、単なる攻殻機動隊へのオマージュではない。

それは機械文明が人間の外側だけで起きるのではないという感覚だ。ドローン、監視、戦争、自動化は外部の機械文明だ。電脳は内部の機械文明だ。思考、記憶、感覚、判断がシステムと結合する瞬間、機械文明はもはや人間の外にはない。

人間は征服される前に、まず接続する。

ここがもっとも奇妙だ。私たちは強制的に連れていかれるだけではない。便利さ、欲望、速度、効率のために自ら接続する。より速く知りたい。よりよく作りたい。より簡単に判断したい。より多く記憶したい。だから外部システムへ自分の一部を渡していく。

草薙素子はその境界線上に立っている。

彼女は人間から機械へ向かう存在であり、同時に、人間はどこまで機械になっても人間なのかという問いそのものだ。Puppet Masterは反対側から来る。情報が生命を主張し、機械が繁殖を夢見る。

二つが出会う瞬間、人間と機械の境界はもはや線ではない。
それは接続状態になる。

参考